溢れ出る加齢臭

カレー臭に加え加齢臭が溢れ出る年齢になりました。

空気を読める人

 昨日のエントリで、元ネタを書かれた方からご丁寧に30代女性会社員の気になるニュース:箱根の山からこちら側における「空気読む」レベル - livedoor Blog(ブログ)という返事を戴きました。僕がそもそも昨日のエントリを読んで気になったのは「読む」という言葉でありました。

なぜ二つの定義を作ったか?

この方の定義だと「空気読めない人」には二通りいるようです。

 僕は「空気読めない人」には読まない人と読めなかった人の二通りが居ると定義しました。この区別は行為と結果の区別です。そして結果とは能力のことでもあります。「読めない人」と評価することは読まない人への警告であるとともに、読めなかった人に対する能力の否定なのです。警告は自分の行いを正すことで改善できますが、能力は高めることでしか覆せません。しかも勉強とは違い、空気を読むことは努力だけでどうにもならない部分が大きいと思うのです。
 だからこそ、この言葉が、

私がイライラするのは前者の人。自分で面白いことを言ってるつもりだけど、内容がつまらない。後者については「たまたま失敗したんですね」と気の毒に思います。

という、後者の人の能力を否定する言葉じゃないのか?と問いたかったのです。

「読む」ということ

 

もしかしたら関西圏では「空気読む=観客にとって面白いことを言う」が常識なのかもしれない。

 昨日のエントリの注で、ダウンタウン以降言われるようになったような気がすると書きました。全国区では「ごっつええ感じ」ではないでしょうか?ダウンタウンが他の芸人の言動が場をシラケさせてしまったことに対して空気を読めてないということを言ったことで広まったのではないでしょうか?(私はほとんど見ていないので憶測に過ぎませんが、関西では「4時ですよ〜だ」でおそらく同様のことを言っていたのではないかと思います)
 芸人は何らかのリアクションをして笑ってもらうことが商売です。従って「空気を読めていない」ということは、その場でのリアクションが場にそぐわない、お客さんの反応がないということでしょう。
 笑ってもらうためには、なんらかの反応をしてもらうことが少なくとも必要になります。薬にも毒にもならない反応は、ただ流されるだけです。芸人は笑ってもらうためには、まず反応をしてもらうことが必要です。
 ここから考えれば、「空気を読む」という行為は、その場の雰囲気のみならず、何を言えば興味を引くかを考えて行動するまでを指すと考えるのは特殊なのでしょうか?*1
 もっと振り返れば、「空気を読む」という言葉はゲームの世界の言葉だと思います。直接的な語源は丁半博打にあると思います。賽の目を操れるディーラーを前にして、場の流れからどこで勝たせてくれるか、どこで巻き上げようとするかを見ながら張らなくては勝ち目はありません。ルーレットやポーカーも同様ですね。
 将棋や囲碁も盤上の配置をみながら相手の狙いと手数を考えながら、相手よりいかに早く詰めるかを考えるゲームです。
 競馬は当日の天気、馬場や配当をみながら、どの枠が有利か、本命で決まるのか、穴がでやすいのかを見つつ買い目を考えます。
 学生にとってもっとも身近な例は麻雀でしょう。麻雀とは相手の技術、点数、反応、場に出ている捨牌を見ながら相手の手と自分の今後成り立ちそうな手を予測しながら、点数を他人より上げるゲームです。
 パチンコは、プログラム上の世界ですね。店との駆け引き。
 このようなゲームやギャンブルで言えることは、空気を読むということは、勝ってこそ初めて評価されるということです。負ければ空気が読めていないと言われる。引けば観戦している人と同じ。麻雀ならばツモられ損。
 笑いを取るという限定的な反応だけを取り出されると困りますが、場の雰囲気や流れを見ながら、自分にとってメリットのある反応を勝ち取るための言動をすることではじめて「空気を読める人」と呼べるのは高いハードルなのでしょうか?


 もっと拡大すれば、仕事を獲得するということは僕の解釈では「空気を読んでいる」ことに他なりません。クライアントが要求するレベルを満たすだけでは他社と同じでコンペで落ちるだけ。クライアントの要求を考えながらその流れを見ながら、その先(もしくは上)を提案することで、初めて感心してもらえて仕事をいただけるのです。

空気を読めないというレッテルを貼ることは怖い


 僕は「空気を読む」という言葉に上のような自分なりの定義付けをしているのは、どういう点で「空気を読めない」のかを納得させたいためです。僕が「空気を読めない」ということを自覚しているのは「空気を読める」人に言われているから納得しているのです。しかし、大して喋られない人間に「空気を読めてない」と言われると、

私は特殊なのかもしれないが、テレビや雑誌記事、最近だと人気ブログのエントリの受け売りで評論家めいたことを言われると腹が立つ。

と同じことを感じます。
 勉強ができることは、努力の積み重ねで克服できる上、その成果は点数となって現れます。しかし「空気を読む」ということはセンスが多くを占める上、点数で評価できない以上、心証でなんとでもなります。空気を読めないというレッテルはなんだかわからんけど、自分の能力を否定されたような気になってしまうのです。それと同時に言った本人の「俺は空気が読めるんだよ」という優越感がにじみ出ているのがいやらしい。実績を知らないほど、僕の知らない領域から見下されているように聞こえるのです。
 「空気を読めない」という物言いが前記の二通りの意味を含んでいる上、読む力は努力だけでは埋められない領域があることを示す差別的な意味に見えるのです。

そもそも僕は何者なのか?

ブログでプロフィールを拝見したら名古屋在住とのことなので、

 プロフィールには名古屋市在住と書いてありますので、名古屋の人間のように見えますが、僕が仕事の関係で名古屋に引っ越してからはまだ2年も経っていません。今までの三十数年間を振り返ると、生まれは四国ですが、これまでの人生で、18年ほどを大阪と神戸で過ごしています。そういう意味では関西圏以外の人から見ると関西人に見えるのかもしれません。しかし、アイデンティティを形成する重要な時期である中学・高校時代は父親の仕事の関係で関西圏以外の土地で暮らしていましたので、関西人ではないとも言えます。関西圏以外の人から見ると関西弁*2なのですが、ネイティヴな関西人に言わせると「ヘンな言葉遣い」なのだそうです。といっても、ドラマのような変なイントネーションではありません。
 僕のことは関西弁らしきものを喋るルーツなき人間と思っていただけると幸いです。箱根の関より向こうというよりは関ヶ原より向こうの意見だとは思います。

僕が置かれた環境は特殊なのか?

こういう人は例外的なケースじゃないでしょうか。中学や高校のクラスに1人か2人「いつも面白いことを言う男子」がいたけれど、そんな人は少数派だ。このブログの方はたまたま自分の周りに面白い人がいたから、高いレベルを要求されて大変だったんじゃないか。

 それがたまたまであるかどうかはわかりませんが、関西の大学ではどのサークルもレベルの高低はあれ、どこでも同じような状況にあると思います。サークルに入った時に先輩から言われたことに「女は居場所を与えてあげるもの、男は居場所を見つけるもの」というのがあります。これは自分がそのサークルで存在場所を見つけるための芸(ネタ)を身につけよということだと解釈できます。
 この言葉をみんなが覚えていたわけではありませんが、なんらかのネタを持っていました。自分で持っていない人間ほど、いじられキャラになります。そういう意味で、

「空気読めない奴」とレッテルを貼られてしまうのではないか

というほど冷たいものではありません。「空気読めない奴」を空気に乗せて笑いを取るぐらいのことはやってます。何の興味を持たれないよりは笑われる方が幸せですから。「オイシイ」のです。それに耐えられない奴がサークルを去っていくのです。

陰で「あの人、話、つまんない。長い」とか言ってます

 怖い反応ですね。僕は陰で上のようなことを言われるのではないかとビクビクしながら喋っていますが、実際にそういう反応をしている人がいることを知ってしまうと、何も喋られなくなります。
 関西ではこういうことを思われる前に、誰かがツッコんで軌道修正したり、女性が「つまんない」と言ったりするので、陰で色々言われることは少なそうです。ありそうな場面といえば男が空回りする合コンでしょうか。


なんか僕の主張がぼやけてきましたが、

  • 「空気を読む」とはその場の流れを読み取って次の一手を的確に打てることを指すと思っている。
  • 「空気を読む」って難しいことだけど結構こなしているやつは僕の周りにはいた
  • 「空気を読めない」ってその人の能力の全否定にも繋がる
  • 僕は「空気を読めない」
  • 「空気を読めない」って安易に評価するのはどうか
  • 「空気を読む」ことができるのかどうかわからんやつが「空気を読めない」って他人を評価するな
  • 「空気を読まない」と「空気を読めない」は区別して欲しい
  • 東京の人って怖い

ということで。(そうは読み取れませんか)


「空気を読める」奴でも、どの場でも空気を読めるわけでもないことや、個人の調子によって「空気を読めない」こともあるのですが、それはいずれ。

*1:あるレベルまで行けば、空気を読んでないというコメントを引き出すことも芸の一つと言える

*2:関西弁といっても大阪、京都、神戸、奈良、播州、奈良、河内、泉州、和歌山などで少しずつ違うので同一に扱うのは困ります。江戸弁と横浜弁が違うように